· パイロットの目 · 8 min read
革新が一瞬で消えた日
私たちヘリコプター事業部は、革新的なことに挑戦していました。 今まで、ヘリコプターは地文工法—つまり人の目だけを頼りに飛んでいました。天候が少しでも悪くなれば、すぐに飛行中止。これでは定時制なんて夢のまた夢です。 それまでのヘリコプターの仕事は、薬剤散布、物資輸送、送電線の点検など、天候の良い時だけの仕事でした。
「未来」だったヘリコプター事業部
私たちヘリコプター事業部は、革新的なことに挑戦していました。
今まで、ヘリコプターは地文工法—つまり人の目だけを頼りに飛んでいました。天候が少しでも悪くなれば、すぐに飛行中止。これでは定時制なんて夢のまた夢です。
それまでのヘリコプターの仕事は、薬剤散布、物資輸送、送電線の点検など、天候の良い時だけの仕事でした。
でも私たちの事業部は違いました。ヘリコプターを使った定期運送事業を目指していたんです。
天候が悪くても安定して定時制を守って安全に飛行する—そのために、担当するパイロットは計器飛行の免許を取得し、視界が悪くても安定した姿勢で安全に飛行できる技術を身につけました。
皆さんが乗っている旅客機と同じように2人クルー制を導入して、一人では見逃すことを二人の目で察知する。対話をしながらの操縦で、安全性を格段に向上させました。
路線運航のシステムをヘリコプターと小型ジェットにも適用し、運航計画まで自動作成できるシステムも構築しました。
成田-羽田間の定期路線、ある大手企業の宮崎での工場と空港を結ぶ人員輸送…
まさに、ヘリコプター業界の最先端を走っていたんです。
あの頃の私たちには、何とも言えない輝きと自信がありました。
一瞬で消えた10年の積み重ね
ところが、運命は残酷でした。
私たちの機体が対空検査で運航できない間、他社に人員輸送を委託したところ、事故が発生。すべてが無に帰してしまったんです。
スキルではなく、考え方や教育が大切だということを、皮肉にも事故が証明してしまいました。
そして、ヘリコプター事業部閉鎖の決定。
10年以上かけて積み上げてきた革新的な運航システムが、一瞬で霧散してしまいました。今でも確実に使えるシステムだったのに…
一番心が痛んだのは、アルバイトの整備の人たちでした。「頑張って社員になろう」と思っていたのに、放り出されてしまった。人生の若い貴重な時間を、ただ会社のために使われて。
労働の流動化なんて、結局は会社に都合のいい「いつでも切れる労働力」が欲しいだけのシステムなんだと、つくづく思いました。
50歳からの挑戦、そして失われたもの
私たちパイロットは路線部門への移行が決まりました。
私は固定翼と回転翼の両方の免許を持っていたので、すぐにお客様を運ぶ機体の移行訓練に入ることができました。
でも、50歳近い先輩たちは違いました。単発のセスナから固定翼のライセンスを一から取得しなければならなかったんです。
陸上単発、陸上双発、計器飛行ライセンス…
私が20代の頃に3年近くかけてやったことを、この年代でやり始めなければならない。並大抵の苦労ではなかっただろうと想像します。
回転翼機と固定翼機では、考え方も飛び方も全く違います。
ヘリコプターは感覚、フライトのセンスが重要。固定翼機は理論が全て。操縦の考え方が根本的に違うんです。
先輩たちは一生懸命に挑戦し、みんなで支え合って全員が合格しました。これは本当に賞賛に値することだと思います。
でも…
いつもできていないことを指摘され続けて、みなさん心に傷を負ってしまったようでした。ヘリコプターの時に持っていた誇り、あの輝くような自信を失ってしまっていました。
教官も一生懸命だったんです。でも、「もっと楽しく成長できる方法があったのに」と、今になって思います。
人生何が起こるかわからないけれど
JALという大企業でさえ潰れた時代です。人生、本当に何が起こるかわからない。
自分の希望や目標に関わらず、世の中の変化に対応していかなければならない時があります。
でも大切なのは、その変化にどう向き合うかなのかもしれませんね。
できないことばかりを指摘されて自信を失うのではなく、新しい挑戦の中にも誇りを見つけられる方法があったはずだと思っています。
あなたも今、何か大きな変化に直面していませんか?
思いもよらない方向転換を迫られて、戸惑っているかもしれません。
でも、その変化の中で失うものもあれば、新しく得られるものもあるのかもしれません。
私たちの革新的なシステムは消えてしまいましたが、それを作り上げた経験と学びは今でも私の中に生きています。
変化は時として残酷です。それでも前に進むしかない。
そんな時、大切なのは一人で抱え込まないこと。「みんなで」という力があれば、きっと新しい道も見えてくるのではないでしょうか。