· パイロットの目  · 11 min read

航空大学校卒業から迷いの道のり

1977年に航空大学校を卒業した私たち。前年まではJAL、ANA、東亜国内航空へ希望したところへの就職が当たり前だったのに、私たちの代からぱったりと就職がなくなりました。 石油ショックの影響で航空業界全体が大打撃を受けていたのです。 卒業の時は、ほとんどの学生の就職が決まっていませんでした。

1977年、就職氷河期の始まり

1977年に航空大学校を卒業した私たち。前年まではJAL、ANA、東亜国内航空へ希望したところへの就職が当たり前だったのに、私たちの代からぱったりと就職がなくなりました。

石油ショックの影響で航空業界全体が大打撃を受けていたのです。

「3年待て」と言われても…

卒業の時は、ほとんどの学生の就職が決まっていませんでした。

教官たちからは「とにかく3年待て、絶対に航空会社への就職はあるから」と言われました。でも当時の私たちにとって、3年なんて気が遠くなる期間でした。

そんな長い間、就職もなく暮らしていけません。しかも、どんどん航空大学校の卒業生は出てくるのに、パイロットの求人はゼロ。新卒が有利なのは分かっているので、時間が経てば経つほど不利になると思い込んでいました。

「もうパイロットになれないかもしれない」

卒業して一人で悶々と考える日々でした。みんなで話し合えていれば、もっと違った判断ができたかもしれません。

それぞれの選択

そんな中、同期たちはそれぞれの道を選んでいきました。

小型機の使用事業の会社に行く者、薬剤散布のヘリコプター会社に行く者、一般企業に就職する者。私たちは何かに追い立てられるように、パイロット以外の道を選択していきました。

SONYでの2年半

私は幸運にも、当時のSONY・大賀社長のご厚意で採用していただくことになりました。大賀社長が飛行機に理解があり、「就職がないのであればSONYで2名採用する」と言ってくださったのです。

カセットテープとビデオテープの時代

SONYでは、当時大流行りだったカセットレコーダーの営業をしていました。カセットテープや、ベータとVHSの時代のビデオテープの拡販が主な仕事です。文具の卸問屋さんを回り、倉庫の整理なども手伝いながら営業活動をしていました。

中途採用の孤独感

ただ、私は中途採用だったので同期がいませんでした。一般採用で入った人たちには同期入社の仲間がいて、とても仲良さそうでした。

当時SONYに入る人はとても優秀で、「私はとてもじゃないが勝てないな〜」と思っていました。やはり心のどこかで、自分の居場所はここじゃないという気持ちがあったのです。

空への憧れが再燃

2年半ほど勤めているうちに、ぽつぽつと航空会社でFE(フライトエンジニア)の採用が始まりました。当時の大型機は3人で運航する機体が多く、主に航法や燃料管理をする職種です。

同期の何人かが、合格して入社していきました。私も試験を受けたのですが、ダメでした。面接の時に、パイロットになりたいという意思を伝えたのがダメだったのかもしれません。

FEに合格した人たちを見ると、別のところにいてもしっかりと学び続けていた人たちでした。今思えば、会社はちゃんと見ているんだなと思います。

やはり空への憧れは断ち切れませんでした。どうしても自分で飛びたい。その思いが日増しに募っていきました。

ヘリコプターという選択

その当時、ヘリコプターのパイロットには需要がありました。

農林水産航空協会が薬剤散布のヘリコプターパイロットを養成していたのです。今まで基礎課程を自衛隊に委託していたものを航空大学校に移すための移行期間で、固定翼の事業用免許を持っている人を対象に、ヘリの訓練だけを自衛隊に委託するシステムが始まっていました。

給料をもらいながら訓練

このシステムは面白いもので、試験に合格した後、会社の面接を受け、その会社が嘱託契約を結んで農水協に訓練委託をするというものでした。

給料ももらいながら訓練できる—といっても7万円だけでしたが、無職になるよりはマシです。

「これを受けて通れば、とりあえず飛べる」

そう思いました。

路線機への夢は捨てられず

ただ、どうしても路線機の夢は捨てられませんでした。

当時の東亜国内航空がヘリ事業部を持っていることを知り、「そこに受かれば会社を辞めよう」と思ってチャレンジしました。運良く合格できたのです。

人生の大きな決断

SONYを退職し、半年後にヘリコプター訓練に入学する予定でした。

その間に結婚をしました。

「なぜ仕事もない時に結婚なんて?」と思われるでしょう。今で言う「できちゃった婚」だったのです😅

霞ヶ浦での訓練

農水協の訓練は霞ヶ浦の自衛隊で行われました。

子連れで卒業式に出席した学生は初めてだと言われました。家族を抱えての訓練は大変でしたが、「これでやっと飛ぶことができる」と安心していました。

現実はそう甘くなかった

ところが私の場合、そんなに簡単にはいきませんでした。

ヘリコプターの免許は無事取得できました。「これで、会社に戻ったら、ジェットヘリの訓練をして、機長として飛べるんだ」と希望を胸に、会社に挨拶と卒業の報告に行きました。

しかし、また別の厳しさが待っていたのです…

振り返って思うこと

あの時の選択が正しかったかどうか、今でも分かりません。

もし教官の言う通り3年待っていれば、路線パイロットへの道が開けたかもしれません。今思えば、経済状況は良くなったり悪くなったりし、悪い状況はずっと続かないことは分かります。でも当時の私たちには、そんな余裕はありませんでした。

生活していかなければならない現実と、空への憧れの狭間で揺れ動いた青春時代。今思えば、もう少しみんなで話し合って、情報を共有できていれば違った道もあったかもしれません。

また、自分の目標を忘れずにじっくりと腰を据えて学んだ者が、一番早くゴールにたどり着けるということも学びました。

でも人生に「たら・れば」はありません。その時その時で精一杯の選択をしただけです。

次回への予告

次回は、ヘリコプター訓練での体験と、実際の現場で待っていた新たな試練について詳しくお話しします。免許は取得できたものの、そこから先には予想もしない困難が待っていました。


この記事についてのご質問やご感想がございましたら、お気軽にコメントでお聞かせください。特に同世代の方や、就職で悩まれた経験のある方からのお話をお聞きできれば幸いです。

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