· パイロットの目 · 13 min read
仙台課程での双発機訓練
宮崎での計器飛行訓練を終えた私たちは、いよいよ最後の課程である仙台へと向かいました。ここでは双発機(エンジンが2つある飛行機)のライセンス取得が主な目的です。 これまでの単発機とは全く違う世界が待っていました。 仙台課程での主要な訓練は双発機のライセンスを取る訓練です。その中でも最も重要で、最も恐ろしい訓練がエンジン故障への対応でした。
最終課程への移行
宮崎での計器飛行訓練を終えた私たちは、いよいよ最後の課程である仙台へと向かいました。ここでは双発機(エンジンが2つある飛行機)のライセンス取得が主な目的です。
これまでの単発機とは全く違う世界が待っていました。
双発機訓練の本当の怖さ
仙台課程での主要な訓練は双発機のライセンスを取る訓練です。その中でも最も重要で、最も恐ろしい訓練がエンジン故障への対応でした。
エンジンが故障しても、片方のエンジンだけでスムースに飛行できるようになる—これが双発機パイロットに絶対に必要な技術です。
突然のエンジン停止
飛行中に、突然、教官が片側のエンジン出力を絞ってしまうのです。
どこで、いつエンジンが切られるかわかりません。燃料のコックを閉じたり、旋回中横を向いている時に、エンジンレバーを切られてしまいます。
特に離陸中—飛行機の状態が最も不安定な時に、エンジン故障が起こっても確実に対処できるよう訓練します。離陸中の飛行機が浮くか浮かないかという瞬間に、実際に片方のエンジンをいきなり絞られてしまうのです。
一瞬の判断が生死を分ける
すぐに切られた側と反対の方向舵を当てて、半分になった出力で上昇できるように緩やかな上昇姿勢を作らなければなりません。判断を誤れば、たちまち滑走路を飛び出したり、失速してしまいます。
教官も訓練生も、はっきり言って命がけです。何かの不具合が重なれば、事故につながってしまいます。
実際に、私たちの訓練中にも悲しい事故が起こってしまいました。
真剣勝負の現場
そんな訓練なので、学生も教官も真剣勝負です。声も大きくなるし、説明している暇がなければ、手が飛んできます。一瞬の遅れが命取りになる世界では、のんびりとした指導など許されませんでした。
私にとって空酔いはフライトの日常でした。宮崎に続いて仙台でも、相変わらず毎回のように気分が悪くなっていました。
ある日のフライト中、いつものように気分が悪くなり、ついに口の中に嘔吐物が上がってきました。反射的に吐き袋に出そうとした瞬間、隣席の教官から雷のような声が飛んできました。
「出すな!飲み込め!」
一瞬、自分の耳を疑いました。しかし、教官の表情は真剣そのもの。仕方なく、口の中に出てきたものを飲み込みました。
その瞬間の感覚は、今でも鮮明に覚えています。口の端からは飲み込めなかった嘔吐物が飛び出し、目からは涙が溢れ、鼻にも逆流してきます。あの何とも知れないドロドロ感と酸っぱい匂いが頭の中に突き刺さるような感覚でした。
それ以降、もう吐かせてもらえることはありませんでした。気分が悪くなっても、ひたすら飲み込む日々が続きました。
寮に帰ると、同期が楽しそうに私の殴られ話や空酔い話を聞きに来ていました。今思えば、みんなでストレスを発散していたのかもしれません。
現在はシミュレーターの性能も向上し、十分な訓練を経てから実機での訓練になっているようです。私たちの時代は、いきなり実機で命がけの訓練をしていたのです。
就職の現実:石ころは拾わない
何とか双発機の操縦ライセンスと計器飛行のライセンスを取得して、いよいよ会社を選定する時期になりました。
ところが、現実は厳しいものでした。
突然変わった就職状況
私たちが卒業する前の年までは、JAL、ANA、TDA(東亜国内航空)の3社にどこでも希望するところに入ることができました。航空大学校を卒業すれば、パイロットとしての就職は約束されていたのです。
ところが、石油ショックで経済がとても落ち込んでしまったため、私たちの前の期から突然、採用は某大手航空会社の7名だけしかなくなってしまいました。
覚えている人がいるかもしれませんが、スーパーの棚からトイレットペーパーがなくなったのです。あの時代の混乱ぶりを象徴する出来事でした。
印象に残る会社説明会
会社説明会で言われた言葉は、今でも強く印象に残っています。
「うちはダイヤモンドは捨てても、石ころは絶対に拾わない」
要するに、優秀な学生だけを厳選するということでした。44人いた同期のうち、たった7人しか採用されないのです。
運命の試験日
いよいよ、採用のための実機での試験の日がやってきました。
悪天候という救い
朝から天候が悪く、試験科目を行えるような気象状態ではありませんでした。緊張でガチガチになりながら、気象の説明をしました。
教官、採用担当も実施することは無理と判断して、中止と決定しました。私は、ホッとして寮に帰ったのでした。
突然の呼び出し
寮の部屋のベッドに倒れ込んだ途端、同期が走り込んできました。
「とりあえず、君だけやってみるから」
急遽フライトの用意です。バタバタで、何をどうしたか覚えていませんが、声は上ずり、呼吸は浅く、高度制限を突き抜けそうになったり、コースを外れそうになったことは覚えています。
結局その日は、その後の試験は気象条件が悪くキャンセルとなりました。
ダイヤモンドを拾った人たち
さすが某会社は、しっかりとダイヤモンドを7個ゲットして行きました。私は残念ながら、石ころの方だったようです。
卒業時の現実
卒業の時は、ほとんどの学生の就職は決まっていませんでした。
航空大学校を出ればパイロットになれる—そんな時代は終わっていたのです。石油ショックの影響で航空業界全体が不況に陥り、パイロットの需要が激減していました。
多くの同期生が、パイロット以外の道を選択せざるを得ませんでした。一般企業への就職、公務員、中には家業を継ぐ者もいました。
それでも諦めなかった理由
それでも私は空への憧れを捨てきれませんでした。せっかく苦労して取得したライセンス、命がけの訓練を乗り越えた経験を無駄にしたくなかったのです。
パイロットになる道は一つではない。そう信じて、別の方法を模索することにしました。
訓練を振り返って
仙台課程での訓練は、これまでで最も厳しく、最も危険なものでした。しかし、そこで学んだのは技術だけではありませんでした。
生死に関わる判断を瞬時に下すこと。プレッシャーの中でも冷静さを保つこと。チームとして連携すること。これらの経験は、その後の人生で大きな財産となりました。
悲しい事故もありました。仲間を失う辛さも知りました。でも、それでも空を飛びたいという気持ちは消えませんでした。
次への道のり
航空大学校での2年8ヶ月の訓練は終わりました。しかし、パイロットへの道のりはまだ始まったばかりでした。
就職が決まらない中、私たちはそれぞれ別の道を歩むことになります。でも、空への憧れを持ち続けた者だけが、最終的に本当の空の世界にたどり着くのです。
次回は、航空大学校卒業後の就職活動と、迂回路を通ってでもパイロットになろうとした私の選択について詳しくお話しします。
この記事についてのご質問やご感想がございましたら、お気軽にコメントでお聞かせください。特に航空大学校や航空業界に興味のある方からのご質問をお待ちしています。
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