· パイロットの目  · 10 min read

やっと操縦桿を握れる喜び

8ヶ月の整備見習いが終わって、ついに空に戻れる日がきました。 「これでやっと飛べる」 固定翼のパイロットの方が、高齢でやめることになり、私が固定翼の免許も持っているということで、パイロットとしての訓練をやってもらえることになりました。 とりあえず、ヘリコプターの免許からということになった。

やっと訓練が始まります

8ヶ月の整備見習いが終わって、ついに空に戻れる日がきました。

「これでやっと飛べる」

固定翼のパイロットの方が、高齢でやめることになり、私が固定翼の免許も持っているということで、パイロットとしての訓練をやってもらえることになりました。

とりあえず、ヘリコプターの免許からということになった。ヘリコプターは当時は、その型式ごとに免許を取る必要があったのです。

とにかく訓練をしてもらえることが嬉しくて嬉しくて

訓練生としてですが、やっとまともに給料がもらえるという安堵感。今まで7万円でやっていたので、本当に嬉しかった。

操縦桿を握れる喜びと生活の安定、両方が一度に手に入る。

固定翼訓練の日々

東亜国内航空のヘリコプター事業部には、薬剤散布や、物資輸送だけではなく、フジサンケイグループの取材機運航も請け負っていました。

機材はH500(ヒューズ500)というヘリコプターと、S310というセスナの双発機。

ヘリコプターの訓練は、まずホバリングからの訓練です。

自衛隊の時の機体はレシプロのヘリコプター、オートバイのスロットルのようなものがついていて、ローターの回転を上げるときはスロットルを開いてパワーをあげていかなくてはいけません。

しかし、ヒューズ500は、JETヘリで、パワーがあるので、そのあたりは、エンジンに任せて大丈夫です。ホバリングもとても安定していました。

八尾空港で、タッチアンドゴーや、オートローテーションの訓練を繰り返しました。

晴れて、ヘリコプターの機長発令を受け、一人前のパイロットになれました。

東京転勤、そして現実

ヘリコプターの機長発令を受けるにあたり、勤務地は東京になると言われました。

当然八尾で勤務してい他ので、東京に転勤の場合は、引越し費用や、住宅費は少し援助があるかなと思っていました。

総務部長に言われたことは、「東京採用ということなので、住宅、引越しは自分でやってください」と。

せっかく訓練してもらったので、贅沢は言えません。とりあえず、借金をしまくって、横浜の方に住まいを見つけました。

東京での訓練が始まりました。

格納庫は、ちょうど、モノレールがトンネルから出て羽田空港の横を通るくらいのところにある海上保安庁との並びにありました。駅で言うと、整備場です。

そこには、朝日新聞 読売新聞の格納庫もあり、各社 小型の固定翼の機体とヘリコプターを持っていました。何か事件があると一斉に飛び立っていきます。

離着陸は、多摩川沿いに飛行して、旅客機の運航の邪魔にならないようにしていました。

東京での訓練は、当時、横浜の並木地区が埋立され広い空き地がありました。その広々とした空き地で、オートローテーションの訓練をやりました。

ヘリコプターは、離陸と着陸する方向に障害物からの間隔を保てる空間があれば、どこでも申請して離着陸場として使用できるのです。具体的には、着陸地点そのものは20m×20m程度の広さがあれば十分ですが、離陸方向に500m、着陸方向に250mの進入区域に障害物がないことが条件になります。飛行機のような長い滑走路は必要なく、この条件さえ満たせば空き地でも校庭でも、土地所有者の承諾と地方航空局への申請で合法的に離着陸場として使えるのです。

晴れて、機長発令を受け、取材機のパイロットとして羽田にスタンバイをする日が来ました。

そして迎えた本格的な報道取材

1982年2月9日、ホテルニュージャパンの火災現場で、私は初めて知ることになりました。

発生は朝3時です。

朝方の電話で叩き起こされ、「都内でホテル火災、すぐに飛べ」という指示です。

羽田に着くとすでに整備の人はついていて、ヘリも格納庫から出され、準備をしているところでした。

私は、気象条件を調べ、フライトプランを航空局に提出したり出発の準備を素早く整え、機体に向かいます。

ちょうどカメラマンも到着し、すぐに出発です。まだ日が登っておらず、暗い中の飛行です。

上がって都内に近づくと赤い炎が見えてきました。こんなにビルは燃えるのかと言うくらい、窓から炎が吹き出していました。

そこからが、カメラマンと操縦士の間には、激しい「価値観バトル」が始まりました。

「いい写真」vs「安全飛行」の激突

「もっと近づけ!」

「低く降りろ!」

「あの看板より高いだろー!」

「あそこに人がいる、もっと近づけ!!!」

ヘッドホンを通じてカメラマンが怒鳴りまくります。

一番怖いのは、ビルとビルの間に渡った電線のような線状の障害物です。慎重にそれらの存在を見ながら、ビルとビルの間の道路の上を飛行していきます。

暗い中、他社のヘリコプターも同じようにいい写真を撮ろうとぐるぐると現場上空を回っています。

普段温厚な人ばかりなのですが、カメラマンはファインダーを覗くと別人になってしまいます。

まるで自分の命などいらないかのようにいい写真を撮ろうとします。

価値観が違う世界での生き方

カメラマンの「命がけでもいい写真を撮りたい」という情熱は理解できます。それは彼らの職業魂であり、尊重すべき価値観です。

デスクの「何としても他社に負けたくない」という競争心も、報道の世界では当然の感覚でしょう。

でも、私には「カメラマンを安全に連れて帰る」という絶対に譲れない目的がありました。

どんなに怒鳴られても、この一点だけは絶対に曲げられない。それがパイロットとしての価値観の核心部分だからです。

価値観の違う相手との付き合い方で学んだのは、相手の価値観を尊重しつつも、自分の価値観に迎合しないということでした。

理解し合おうと努力する必要はあります。でも、自分の守るべきラインを崩してまで相手に合わせる必要はない。

住む世界が違うなら、お互いの世界を認め合いながら、それぞれの責任を果たす。それが一番健全な関係なのかもしれません。


次回は、この価値観の衝突がさらに激化した取材現場での体験をお話しします。

パイロットの世界から見えてくる、本当のリーダーシップとは何か。お楽しみに。

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