航空大学校卒業から迷いの道のり
1977年に航空大学校を卒業した私たち。前年まではJAL、ANA、東亜国内航空へ希望したところへの就職が当たり前だったのに、私たちの代からぱったりと就職がなくなりました。 石油ショックの影響で航空業界全体が大打撃を受けていたのです。 卒業の時は、ほとんどの学生の就職が決まっていませんでした。
1977年に航空大学校を卒業した私たち。前年まではJAL、ANA、東亜国内航空へ希望したところへの就職が当たり前だったのに、私たちの代からぱったりと就職がなくなりました。 石油ショックの影響で航空業界全体が大打撃を受けていたのです。 卒業の時は、ほとんどの学生の就職が決まっていませんでした。
宮崎での計器飛行訓練を終えた私たちは、いよいよ最後の課程である仙台へと向かいました。ここでは双発機(エンジンが2つある飛行機)のライセンス取得が主な目的です。 これまでの単発機とは全く違う世界が待っていました。 仙台課程での主要な訓練は双発機のライセンスを取る訓練です。その中でも最も重要で、最も恐ろしい訓練がエンジン故障への対応でした。
帯広でのソロチェックをなんとか突破した私たち。次の訓練課程のため、今度は宮崎空港へ移ることになりました。北海道の極寒から九州の温暖な気候への移動—これだけは天国のような変化でした。 ソロチェックも通っているので、ひとまず安心です。 宮崎では、一部屋に4人が生活します。フライト訓練中の年長者と、これからフライトに入る学生の混成チーム。
こんにちは。 今日は、私が20歳の時に体験した出来事をお話しします。50年経った今でも、鮮明に覚えている出来事です。 「もうやめて、帰った方がいいよ」 航空大学校帯広分校の格納庫の裏。秋の夕暮れ、傾いた日差しが頬に当たる中で、教官から告げられたその一言。 二十歳の私は、脚が震え、言葉を失いました。
「本質のコンパス」を訪れてくださり、ありがとうございます。 突然ですが、こんな経験はありませんか? 朝起きてスマートフォンを見ると、何十もの通知。SNS、ニュース、メール...。気がつくと1時間経っていて、「結局、何が重要だったんだろう?」と思ってしまう。 私も同じです。 30年間、JALのパイロットとして空を飛んでいました。